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徳田虎雄名誉理事長エピソード

うがみんしょ~らん。

今年永眠された徳田虎雄名誉理事長の話で一年を締めたいと思います。

徳田理事長のエピソードを最近聞く機会があり、実に信じがたく面白かったので一部を紹介します。

※昔話である事を前提でお願いします。

笠利病院や奄美に病院がない時代、病院を建てる手段として(政治家の許可がないと、病院を建てれなかったため)、衆議院議員になる事を決意され、選挙にチャレンジされました。

その1

移動

集落をまわる等、笠利町での選挙活動を終え本土へ戻るため奄美空港へ到着。

そこでなんと搭乗締め切り時刻の10分前にも関わらず、徳田理事長は【今からもう一人会いに行くぞ】と💦

車で片道10分はかかる場所に、普通は無理だろうと考える所、本当に行って返ってきたそうです。

赤信号は気をつけて進め、は理事長の有名な文言です。

他、徳洲会のセスナ機で奄美空港を出発する際に、かなりの強風で危険なコンディションにも関わらず、行くぞと迷わず乗りこんでいったそうです。

理事長のスケジュールはいつも分刻みだったそうで、付き添いやドライバーは大変だったそうです…

その2

選挙に落選した直後の話

当選して笠利町に病院が建つことを夢見て、集落を一軒一軒回ったり、集会等を何年もかけ開き、少しずつ支持者を増やす等、苦労して挑んだ選挙でまさかの落選…

その瞬間、これで笠利町に病院が建つことはなくなった。全てが終わったと、皆が絶望し諦めたそうです。

そんな中、徳田理事長が現れて放った言葉が凄かった。

【今回の敗戦で神様が自分にあえて試練与え、病院を建てろと言ってると確信した。笠利町に必ず病院を建てるから、土地を探して準備しておけ】

その3

二度落選し三度目の正直で当選し、いよいよ念願の病院が建つことが決まりました。

理事長からの指示は、場所は今ある赤木名に建てろだった。理由は笠利町の中心に位置し、名瀬にも近いため重傷者をすぐに搬送できるから、だったそうです。

もう一つ。クリニックのような小さな病院ではなく、たくさんの方が入院できるよう6階建てにしろ。

20年以上経った現在、これが見事に正解だったと思います。他にも、24時間365日稼働、外来送迎バスと、今ではどの病院も当たり前になったことがあります。

未来を読む能力が、ずばぬけていたのを感じます。

考え方も行動も全てが別次元のお方でした。だからこそ成し遂げたられたという事でしょうが。

笠利病院は今は当たり前のように存在してます。しかし、その歴史はすさまじく、理事長と一緒になり苦労された方々の血と汗と涙が詰まった物凄い病院なんです。

そんな笠利病院を皆様、来年も宜しくお願いします。

今年一年お疲れ様でした!

ブログご視聴ありがとうございました!