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東上理事長の直言紹介
うがみんしょ~らん。
パリオリンピック体操金メダルおめでとうございます!
朝礼で事務長より、徳洲会体操クラブはスポンサーが離れ当時苦戦していた体操を徳田理事長が再び強い体操に復活させよう、という想いでスポンサーを引き受けた、と聞きました。それが現実になり、徳田理事長もメダルを喜んでおられることでしょう。
現在、徳田理事長の意思を引き継いで、徳洲会グループは東上震一理事長が更なる発展に奮闘しているところです。
2024年7月29日発行の徳洲新聞、東上理事長の記事の一部です。
7月10日20時15分、徳田虎雄・名誉理事長は20年以上にわたるALS(筋委縮性側索硬化症)との苦闘の末、86歳で、その壮絶な人生に終止符を打たれました。亡くなる1週間前に面会した八木沼正子・看護部門本部長が「今度、インドネシアに徳洲会の協力で、ハラパンタ・徳洲会循環器病センターができるのですよ」と報告した時、閉じていた目を開き、眼球が左右に動くのが確認できたそうです。
2年前に私が理事長に選任されたことを報告した際も「事業を行ううえで、数字合わせは必ずします」という徳洲会フレーズを言った時、徳田先生が目を開かれるという、”小さな奇跡”が起きたことを思い起こしました。もうその頃は、病状進行のため眼球の動きで取れていたコミュニケーションが全く不可能になっていたからです。想像を絶する長い病苦の中にあっても、徳田先生は”徳田先生であること”をしっかり保持されていたのです。
次々と、いろいろなことが思い出されます。衆目の一致する意見に違える先生の直接の指示で、岸和田徳洲会病院の院長職を拝命した私が、医局の先生方との関係や人事の難しさを嘆いた時、文字盤を追う目の動きで秘書が通訳する状態であったにもかかわらず、「私と代わってみるか」と、ニヤッと表情を崩された仕草と言葉が思い起こされます。あの苦しみの中にあっても、ユーモアを失わず、厳しいけれども温かく前向きな人となりが偲ばれます。
”生か死か、真実を求めて”。以前の「直言」でも少し触れましたが、当時、まさに時代の寵児(ちょうじ)であった徳田先生最初の著書のなかで、幾多の激烈なメッセージの間に何気に挟み込まれた「いくら仕事ができても、温かい人間でなければだめだ」という一言を見付けた時、私は人間・徳田に触れた気がしました。